『4%の宇宙』(リチャード・パネク著,谷口義明訳)

4%の宇宙』を久々に読みました.宇宙の加速膨張を明らかにした遠方Ia型超新星の研究成果を紹介する一冊です.まだ学生だった頃に読んで,そのまま本棚に残してたのを再読しました.

本書を書いたのはアメリカのサイエンスライターリチャード・パネク氏です.宇宙論研究に取り組んでいる多くの研究者たちのエピソードが生々しく語られていて,膨大な取材のもとに書かれていることが感じられるような一冊でした.そんな本書を翻訳されたのは,天文学者谷口義明氏です.谷口氏は専門分野は異なるようですが,一般向けにさまざまな著作を書いていることもあって,翻訳のクオリティにも信頼がおけるものになっています.実際,谷口氏による多くの訳注が添えられていて,読者の理解を補ってくれるものになっています.

4%の宇宙 - 宇宙の96%を支配する"見えない物質"と"見えないエネルギー"の正体に迫る|Amazon

f:id:NoteAstron:20210320140736p:plain

 

本書で主に扱われているのは,2011年のノーベル物理学賞の対象となった,遠方のIa型超新星を標準光源にして宇宙の膨張速度を調べるという国際研究プロジェクトについてです.

本書のタイトルにある「4%」というのは,宇宙を占める質量のうち,私たちが知っている原子など*1の割合に対応しています.ちなみに残りの96%のうち,23%はダークマター,73%はダークエネルギーが占めているとされています*2フリードマン方程式*3によると宇宙の膨張史は宇宙の質量組成によって変わるので,さまざまな赤方偏移にある天体までの距離を調べてそれらの間の関係を求めることで,宇宙の質量組成を見積もることができます*4*5

f:id:NoteAstron:20210322191721p:plain

 

実は,遠方のIa型超新星の観測から宇宙の膨張史を明らかにするというサイエンスゴールを掲げて研究を遂行した国際プロジェクトは二つありました.ひとつはソール・パールムッター(Saul Perlmutter)氏がリードしたSupernova Cosmology Project(SCP)で,もうひとつはブライアン・シュミット(Brian P. Schmidt)氏やアダム・リース(Adam Guy Riess)氏らが主なメンバーとして活躍したHigh-Z Supernova Search Team(HZSS)です.彼らは互いに競合関係にあって独立して研究を進めていきましたが,最終的にいずれのプロジェクトも,当初想定していなかったような意外な結論にほぼ同時期に到達することになりました*6

f:id:NoteAstron:20210322192109p:plain

 

本書では,加速膨張の発見に至るまでの流れだけでなく,それぞれの国際研究プロジェクトが立ち上がった経緯や,その歴史的な発見に関わった多くの研究者たちの人間臭いエピソードなども描かれています.また,宇宙論の導入として,ビッグバンの名残である宇宙マイクロ波背景放射の発見にまつわる話*7*8*9*10や,いまだ正体不明のダークマターダークエネルギーに関する研究の話もあり,とても読み応えのある一冊でした.

その中で特に印象深かった記述を以下に二つ記しておきます.

 

ハッブル宇宙望遠鏡の所長裁量時間の獲得

最も印象深かった記述のひとつは,ハッブル宇宙望遠鏡の所長裁量時間(Director's Discretionary Time)の獲得に関するものです.

ハッブル宇宙望遠鏡の観測時間は人類にとって大変貴重なものですので,通常は公募によって観測プログラム案を募って,審査を経て優れたものだけが採択されて実行されます.そうした国際公募の競争率は望遠鏡の需要と観測できる時間に依るのでまちまちですが,だいたい3倍から10倍程度でしょうか.その中でもハッブル宇宙望遠鏡の競争率は比較的高い印象です.

ただ,そうした国際公募ですと観測を提案してから実際に実効されるまでにそこそこ時間がかかってしまいます.そのため,きわめて重要な観測プログラムをタイムリーに実行したり,また通常の枠組みのもとで実行するのは簡単ではないけれど天文学の発展のために重要なプログラムを実行したりできるよう,ハッブル宇宙望遠鏡を含めた多くの望遠鏡は所長裁量時間という仕組みを設けています*11

 f:id:NoteAstron:20210322192328p:plain

 

パールムッター氏は,SCPチームの超新星探査が地上望遠鏡である程度成功していたことと,ハッブル宇宙望遠鏡であればそれを大きく進展できると考えられたことから,宇宙望遠鏡科学研究所(STScI)の所長ロバート・ウィリアムス氏に,遠方超新星探査をするプロジェクトに所長裁量時間を使ってもらうよう直談判をしました*12

ウィリアムス氏は超新星研究のプロではなかったため,ツテをたどって超新星の研究者三名に意見を求めました.ただ,その研究者たちはいずれもSCPではなくHZSSに属している研究者たちでした.そんな三名はいずれも,地上望遠鏡でもできる遠方超新星探査をハッブル宇宙望遠鏡でやりたいというSCPチームの案に否定的な意見を述べました.貴重なハッブル宇宙望遠鏡の観測時間は,ハッブル宇宙望遠鏡でしかできないサイエンスに使うべきという理由からです.しかしウィリアムス氏はそうした意見を聞いた上で,やはりSCPチームの案は優れているので観測時間を提供すべきという考えを述べます.

三名は,否定的な意見を述べてはいましたが,実はハッブル宇宙望遠鏡超新星を探査することの意義もよく理解していました.たしかに,ハッブル宇宙望遠鏡を地上望遠鏡でもできるサイエンスに使う必要はない,という考えもあります.しかし,天候に影響されることなく,さらに地上に比べて画質や解像度のきわめて高いデータを取得できるハッブル宇宙望遠鏡を使えば,研究が大きく進展する可能性があることは事実でした.

三名は否定的な意見を述べたことを後悔していましたが,そこにウィリアムス氏が意外なことを告げます.

もしHZSSチームがハッブル宇宙望遠鏡に同様の観測提案をしたら,もちろん観測時間を提供します.

ウィリアムス氏の考えは以下のようなものでした.

ハッブル宇宙望遠鏡は重要な望遠鏡です.遠方の超新星探査は新しい研究分野ですが,両方のチームがハッブル宇宙望遠鏡を使えば,すばらしい結果を得ることができるのではないかと考えています

その後,両チームの提案は採択され,ハッブル宇宙望遠鏡による観測データを取得することで,さらに研究を進展させていくことになります.

こういったケースでは多くの場合,競争の末にいずれかのチームだけが観測提案を採択される印象があります.しかし,どの立場であっても真の目的は観測時間を得ることではなくて,観測によってサイエンスゴールを達成することかと思います.独立した二つのチームの両方に観測時間を与えるという采配は最初は意外な気がしましたが,そうすることで二つのチームを程よく刺激することができ,結果として天文学コミュニティ全体としての生産性を高めることにつながったのではないかなと思いました*13*14

f:id:NoteAstron:20210322192700p:plain 

天文学の観測家と理論家

印象深かった記述のもう一つは,観測家と理論家についての以下のようなものです.

理論家というものは,いつなんどきでもひと言あるものだ.なぜなら,それが仕事だからだ.彼らの言うことを真に受ける必要はない.ゴールは正しいことではなく,妥当だと思えることだ.要するに,首尾一貫していればよしとするのだ.

一方の観測家は,理論家というものは我慢強いと同時に激しやすく,いつも足の前に遊び道具をあげていないとダメな犬のようなものだと見なしていた.ひとたび観測家が骨を投げると,彼らはそれに飛びつく.

第8章で宇宙項はゼロなのかそうではないのかといった話があって,そこで出てきた記述です.

 

これについての事例はいろいろある気がします.最近ですとGN-z11-flash騒動でしょうか.

GN-z11というのは,赤方偏移z=10.957に分光同定された銀河です*15.その成果を報告した研究チームが,その天体を何度も分光観測する中で,一度だけきわめて明るい連続光を検出したという報告を別論文でしていて,もしかしたらその起源はz=10.957の銀河かもしれないと述べていました.それらの論文の簡単な紹介はこちらのnoteに記しています.

GN-z11-flashは突発現象のため追観測はできません.そのため,その後に観測家がこの現象について論文を書くのはなかなか難しいかなと思っていました.

しかし,少しして他の研究チームから観測データにもとづく論文が出てきました*16.ただし,観測したのはこの突発現象ではありません.その研究チームは,別の観測プロジェクトで取得された,同じ望遠鏡の同じ観測装置によるデータを観測所のアーカイブから集めてきて,GN-z11-flashと似たような現象を探した結果を報告したのでした.それによると,似たような事例は過去にもたくさんあって,GN-z11-flashも太陽系の天体や人工物が起源であるとする方が自然な説明なのではないかという主張がなされていました.

するとすぐに,この論文に対して,もともと発見報告をしていた研究チームがarXivで応戦してて*17,精神衛生上あまりよろしくないんじゃないかなと思ったような.

その後もいくつかarXivに論文が出ていました*18.結局のところどうなったのかまではちゃんとフォローできていないのですが,ロシアのロケット由来のスペースデブリっぽいという話になっているという認識です.

そんな中,理論家からは,以下のような論文がarXivに出ていました*19

[2012.09634] GN-z11-flash in the context of Gamma-Ray Burst Afterglows

[2101.12222] GN-z11-flash: A shock-breakout in a Population III supernova at Cosmic Dawn?

ひとたび観測家が骨を投げると,彼らはそれに飛びつく. 

という表現が適切かはわからないのですが,これらはこれらで楽しませてくれるような論文になっていた気がします.特にPop III SNのshock-breakoutは興味深いですよね.さまざまな研究成果に矛盾しないストーリーを考えていくことで,そんなことが言えるんだっていう驚きがあると,おもしろい理論論文だなって思って印象に残りやすい気がします*20

https://www.electronicproducts.com/wp-content/uploads/aerospace-research-supernova.gif

 

...と書いていて思い出したのですが,GN-z11-flash以外の事例としてハッブル定数がありました.宇宙マイクロ波背景放射の観測をもとにした値と,超新星などの観測をもとにした値とが,有意に異なっているっぽいっていう問題.これもちゃんとフォローできていないのですが,そっちの方がもっと良い事例だったかも.

 

++++++++++++++++++++

 

そんなわけで,『4%の宇宙』を久々に読み返して印象に残った内容について記してみました.研究者による一般向けの解説本もおもしろいですけど,本書のようなサイエンスライターによる物語形式の本もおもしろいなと思いました.似たような形式かなと思って気になっているのが,最近書店で平積みにされていた『天体観測に魅せられた人たち』なのですが,どうなんでしょう.単行本だとかさばっていまいちなので,Kindle版が出たら検討しようかな.

 

*1:3つのクォークから構成されるハドロンであるバリオンを指しています.

*2:これらはおそらく2011年時点の値で,その後プランク宇宙望遠鏡などによる観測結果を受けて,これらの値はじゃっかん更新されています.

*3:アインシュタイン方程式を一様で等方な時空について書き下すと得られる方程式です.

*4:ただし,この方法だけではバリオンの寄与とダークマターの寄与を切り分けることは難しいので,切り分けるためには別の観測が必要になります.

*5:以下の画像はこちらから転載:宇宙の未来を探る | KEK

*6:以下の画像はこちらから転載:https://www.nobelprize.org/prizes/physics/2011/summary/

*7:第1章の最初のエピソードとして記述されています.1965年,ベル研究所アーノ・ペンジアス氏とロバート・ウィルソン氏が,説明のつかない奇妙な電波を受信したという相談をジェームズ・ピーブルス氏とロバート・ディッケ氏のもとに持ちかける場面から始まります.

*8:後に2019年にノーベル物理学賞を受賞したピーブルス氏のいろいろなエピソードが紹介されている点も本書の特徴のひとつと言えそうです.第3章では『物理学的宇宙論(Physcial Cosmology)』という書籍ができる過程が記されています.ピーブルス氏の講義を聴講したジョン・ホイーラー氏が,その講義をもとにしたノートを渡したことがきっかけになったんだとか(p.77).生まれ年を見るとピーブルス氏は1935年でホイーラー氏は1911年なので,24年の差があるようです.そんな大先輩の方が自分の講義を聴いてノートを取ってるってだけでかなりのプレッシャーを感じそうな気が.

*9:物理学的宇宙論(Physcial Cosmology)』は,先日の『林忠四郎の全仕事』の記事(https://noteastron.hatenablog.com/entry/2021/02/14/215115)の脚注に出てきた,福来氏が理解していると言及していた教科書のひとつと思われます.

*10:ピーブルス氏の書籍が物理学と宇宙論をうまくつなげたものだったのに対して,第7章では,素粒子物理学宇宙論をうまくつなげようとした書籍である,エドワード・コルブ氏とマイケル・ターナー氏による『初期宇宙(The Early Universe)』に関するエピソードも出てきます.

*11:以下の画像はこちらから転載:Hubble moves closer to normal science operations | ESA/Hubble

*12:所長裁量時間の割り当てについても,通常の観測プロジェクト提案と同様に提案書を観測所に提出して審査を受ける仕組みかと思うのですが,それだけで勝負するよりこうした根回しをしておくこともきっととても重要なんだと思います.

*13:ウィリアムス氏は他にも,ハッブル・ディープ・フィールドという,銀河系の天体がほとんどない領域を長時間観測することできわめて感度の高いデータを取得して遠方宇宙を研究するプロジェクトに所長裁量時間を投入したことでも有名です.

f:id:NoteAstron:20210322083131p:plain

*14:以下の画像はこちらから転載:A cosmological surprise: the universe accelerates

*15:こういった文字通り最先端の研究をリードするにはそのときの人生をほぼフルベットしないといけないような印象を持っています.本書で紹介されていた遠方超新星の観測研究もまさにそうだったかと思うのですが,読み進めていく中で次のようなエピソードが載っていました.

チームにメールを書き始めたときだ.新妻の叫びが聞こえた.「信じられないわ!結婚式を終えて,ハネムーンをあっという間に切り上げ,家に戻ればメール三昧」「わかっているよ.だけど,これは重要な仕事なんだ」「これからいつもその言い草を聞き続けるわけ?」

このシーン,容易に想像できる気がします.昔所属していた研究室の教授の奥さんが,これと似たような話を教授の面前で何らかの機会に紹介していて笑ってしまったような記憶もあります.そういったスタイルも良いとは思いますし,周囲にもそういったスタイルをいまだにやっている方々もいる印象がありますが,どちらかというとそういった方々はマイノリティになっているような気がします.私もどちらかというとうまく公私充実をはかっていきたいかな.時代の影響でしょうか.

*16:こちらの論文:[2101.12738] A more probable explanation for a continuum flash in the direction of a redshift $\approx$ 11 galaxy

*17:こちらの論文:[2102.01239] "A more probable explanation" is still impossible to explain GN-z11-flash: in response to Steinhardt et al. (arXiv:2101.12738)

*18:このあたり.

[2102.04466] The GN-z11-Flash Event Can be a Satellite Glint

[2102.13164] GN-z11-flash was a signal from a man-made satellite not a gamma-ray burst at redshift 11

*19:もっといろいろ出てくるかなと期待してたのですが,さすがに懐疑的な研究者が多かったのでしょうか.

*20:以下のgifはこちらにあります:Image of the day: the first supernova ‘shock breakout’ captured in optical light - Electronic Products