『南部陽一郎 素粒子論の発展』(江沢洋 編)

南部陽一郎 素粒子論の発展』を読みました.南部陽一郎氏は1921年生まれの理論物理学者で,素粒子物理学の基礎をなす様々な領域に貢献をし,自発的対称性の破れの発見によって2008年にノーベル物理学賞を受賞しました.

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この書籍は,南部氏による素粒子論やその周辺分野の解説だけでなく,研究の回顧録や,南部氏が縁のあった方々への追悼文などを掲載していて,先日読んだ『林忠四郎の全仕事』を思い出させるような一冊でした*1.太平洋戦争前後の頃を振り返って「日本にとって最悪の時期に,なぜ理論物理学の分野では最も創造的な仕事が続出したのか」といった考察をしたり,「科学研究は科学というよりも芸術に近いもの」であるといった持論を展開したりするなど,南部氏の視点は興味深くいずれも読み応えのあるものでした*2

 

ちょっとだけ親近感がわいた話

正直なところ南部氏の研究成果は専門分野が違いすぎてよくわからないところなのですが,いろいろ苦労されたエピソードは読んでいて少し親近感がわきました.例えば,終戦直後の話.南部氏が研究助手として東大に着任した際,衣食住について最低限を維持する以上の野心はなかったこともあって,南部氏は同僚の助手や嘱託の方々とともに東大理学部1号館で自炊生活をしていたそうです.そのため夜でも隣の部屋に行くなどして気軽に議論できて,研究を進める上で理想的だったといったことを述べていました.

ふと,私も大学院生の頃は夜遅くまで学生部屋に残って研究に取り組んだり,研究室の方々と教科書の輪読やその予習復習をしたり,互いの研究進捗について議論したりしていたことを思い出しました*3.決して戦後間もない頃ではないのですが....人によっては通学時間を惜しんで,炊飯器など調理器具を持ち込んで毎晩自炊して,学生部屋のソファーで就寝して,シャワーはどこかしらで浴びて*4,っていうスタイルも見かけたような*5.今思えばそういったスタイルが効率の良いものなのかは疑問の余地がある気がしますが,いつでも気軽に議論できて,切磋琢磨できる気の知れた仲間が近くにいるというのは,研究を進めていく上で重要な環境なのかもしれないと思うことがあります.コロナ禍になってそうした環境はなかなか築きにくくなった感がありますが,やがてまた実現できる日がくるのでしょうか*6.それとも仮想空間など技術の進展でカバーされるでしょうか.

 

一方で,東大の後に大阪市立大を経て,次に赴任したプリンストン高等研究所で過ごした2年間を「天国と地獄の混じったようなもの」と表現しているのも印象的でした.

われわれ短期メンバーは研究所のキャンパスの中に住んだのですぐ親しくなった.日本での生活に比べれば夢のような環境だが,その反面お互いの猛烈な競争を感じないわけにはいかない.その上,私の計画していた研究テーマ,核力の飽和性とスピン - 軌道力の起源を追求することが一向にうまくいかない.啄木の「友がみな,われよりえらくみゆる日よ...」と同じ心境になった.

プリンストン時代は私の第二の試練期である.はじめて国外に出て,国際舞台で第一級の人たちと競争することになったからである.(中略)どうしても実際の核力の問題を理解できる自信がなく,その外のアイディアも何一つうまく行かなかったので私は絶望的心境に陥った.

とあって,いつでも議論できる環境であっても,あからさまな競争社会であったら,調子の良いときは構わないかもですが,常にそうした状況だと気が滅入ってしまうことは容易に想像できるので,そうした環境は必ずしも良いわけではないんだろうなとも思いました.同じアメリカでも,この後に赴任したシカゴ大学については,

シカゴ大学でも研究生活は(東大で自炊生活していた頃を指して)これに近い.学生も教授もたいてい歩いて通える距離に住んでいるからである.

とあってポジティブな記述しかないように見えて,プリンストンとシカゴの間の本質的な違いが知りたいなとも思ったような.

 

朝永氏の研究スタイル

朝永振一郎氏の研究スタイルに関する考察も興味深かったです.

まず根本的な問題をはっきりとらえる.例えば場の反作用をどう取り扱うかとか,相対論的な定式化とか.次に関係論文を学生と共に系統的に読んでいく.これは自分の勉強にも学生の教育にもなる.次にテーマを着実に展開し,それを片っぱしから解決していく.これはもちろんいうべくして誰にでも実行できるものではない.またいつでも成功するものとも限らないであろう.1940年代の朝永さんは,最も脂が乗り切り,頭が冴えたと共に,自分に適した問題をうまくとらえた時期といえよう.

たしかにある程度の立場になってやりたいことが増えてくると,自分自身で手を動かすだけよりは,いろんな人を巻き込んで系統的に取り組む方が全体としての生産性は高くなる気がします.そのためには,それなりに優秀な方々(手を動かす時間が比較的多くある大学院生や研究員)と共同研究できるような環境に身を置く必要はありそうですが.

 

あのころ朝永さんは「繰り込み」の外に「放棄の原理」ということばをよく使われた.(中略)自己エネルギーの無限大を解決することを一応放棄して,もっとやさしい問題に限定するというのは何か東洋的な哲学を連想させる.しかしはじめに立てた目標に向って勇往邁進するよりも,一歩ごとに環境を鋭く観察し,絶えず観点を変えて突破口をみつける近視的な立場によって意外な方向に事が進歩するのは研究者の常識であり,私もその後だんだんと実地の経験によって悟ってきた.

こうした方針も重要かなと思います.研究する上で何らかの大きな目標があって,それに向かって計画を立てて邁進していこうとするスタイルも良いですが,実際は計画通りにいくことの方が少なくて,当初の計画にこだわっていると前にもどこにも進めなくなってしまう場合もありそうなので,短期的な目標に分割してそれらをマイルストーンとして意識して研究を進めて,うまくいかなければ当初の計画にあまりこだわらずに試行錯誤したり観点を変えて目標を修正したりする方が,精神衛生上も良いような気がします.

そうした軌道修正すべきタイミングは,当事者だけで判断するのはなかなか難しい気もするので,それこそ信頼できる共同研究者との関係を大切にして,折に触れて進捗を議論できるといろいろと良いきっかけが得られる気がします.コロナ禍になって所属している研究機関内のつながりがやや希薄になった気は否めませんが,一方でそういった関係を求めている人同士でオンラインでつながることへのハードルが低くなった気がするので,気の合う共同研究者の方々と友好的・建設的な関係をうまく築いていけたらと思います.

 

その他

他にも興味深く思った記述があるので*7,気が向いたら加筆してみようと思います.研究解説記事についても.

 

あと,日本物理学会誌にこの書籍の高柳匡氏による書評が出ているのを見つけました.こちらからアクセスできました.

https://www.jstage.jst.go.jp/article/butsuri/64/11/64_KJ00005822244/_article/-char/ja/

 

そして南部氏の講演動画もYouTubeにちらほらアップロードされていることに気付きました.気が向いたときに見てみたい.

 

 

*1:その記事はこちら

*2:欲を言うなら,『林忠四郎の全仕事』のように巻末にいろいろな方々による南部氏への追悼文もまとめられてたら良かったのにと思いましたが,そもそも出版されたのがノーベル賞を受賞された翌年なのでそれは難しいか.改訂版に向けてそうした案が出てたりしないでしょうか.

*3:ただの思い出ですが,本郷郵便局の横に美味しい屋という中華料理屋さんがあって,同じ専攻の方々と頻繁に夕食に行っていたのを思い出しました.そういう時間を共有することでそれぞれの理解を深めて,こういう問題に直面したらこの人に聞いてみよう,といった判断をする際の参考にしてたような気がします.

*4:化学科のある建物で浴びられるとかでしたっけ....記憶違いかも.私はやっていないので詳細は不明です.

*5:変わった先輩がいて,一回の睡眠時間が変わらないなら,起きている時間を少しだけ長くして一週間を6日間のように過ごせば,一週間で寝るのが6回になるので,一週間ごとに一回の睡眠時間の分だけまるまる起きている時間が増えて効率が良い,みたいな話もあったような.私も一度試しましたが,日光の多大な影響に逆らうのはなかなか難しくて,夜中に起きるフェーズでうまくいかなくなってすぐに挫折したような記憶があります.

*6:そういえば,私もようやく新型コロナワクチンを接種してきました.知らないことが多かったので,『新型コロナとワクチン 知らないと不都合な真実』といった書籍を読んだり,厚生労働省のwebサイトなどいろいろ検索したりしましたが,それでも当初は投与実績の乏しいmRNAワクチンに抵抗があったため,従来型のワクチンが接種できるようになるまでできるだけ外出せずに待っておこうかと考えていました.ただ,先に打った多くの方々の経過に関する情報や,何より昨今感染が拡大しているデルタ株のリスクを聞いて,待っている間に感染してしまうことの方がデメリットが大きいかなと考えて接種するに至りました.ただ,いろいろな体質や病を抱えている方がいてセンシティブな話題かと思うので,他人の選択は尊重したいところ.ちなみに受けたのはファイザーです.職域でモデルナを接種する機会が提供されていましたが,副反応が強そうだったので,自治体の方でなんとか予約しました.

*7:朝永氏に言われた「あまり多くのことを一つの論文に書くな,別々の論文にしなさい」とか,『スピンはめぐる』の書評とか,学生としての成績と社会に出てからの成績の間に相関はないとか,久保亮五氏の追悼文とか,ランダウ氏のエピソードとか....