『林忠四郎の全仕事』(佐藤文隆 編)

林忠四郎の全仕事』(の一部)を読みました.

林忠四郎氏は1920年生まれの天体物理学者で,2010年に亡くなるまでに多様かつ重要な業績を多く残しました.また,多数の研究者を輩出したことでも有名です.この書籍では,そんな林氏の自叙伝や研究解説および講演録,そしてさまざまな研究者による林氏についての回想が収められています.

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林忠四郎氏の主な業績として挙げられるのは以下の三点です.

  • ビッグバン宇宙における最初の元素合成過程の研究.陽子・中性子・電子・ニュートリノの相互作用による陽子と中性子の存在比の時間変化を計算し,最初に形成される元素は質量比にして水素約70%とヘリウム約30%であり,炭素より重い元素は合成されないことを明らかにしました*1
  • さまざまな質量の恒星進化の研究.特に,主系列星に至る前の「林フェーズ」と呼ばれる段階での星の構造と光度の時間変化を解明しました.
  • 太陽系の形成過程の研究.原始惑星系円盤から出発して,重力不安定性によって分裂して多数の微惑星が作られ,それらが衝突や合体を経て恒星からの距離によって岩石惑星,ガス惑星,氷惑星が形成されることを示しました.太陽系形成の標準理論として「京都モデル」と呼ばれています.

 

その林氏自身による研究解説などは貴重なものと思われるのですが,正直なところ私はまだ読めていません.それよりも105ページに渡る自叙伝と,後半にある対談や講演録,様々な研究者による回想集が興味深すぎて,それらを一気に読んでしまいました.

読み進めると色々と著名な方々が出てきて,あちこちでおぉ〜という声をあげてしまいそうな内容でした.東大生だった頃は今井功*2の力学演習を受けてたり*3落合麒一郎氏主催の理論ゼミに南部陽一郎氏とともに参加してたり,卒業後に天体核現象の研究に着手したきっかけは湯川秀樹氏だったり,ジョージ・ガモフ氏らの \alpha \beta \gamma論文*4*5がリアルタイムで出てきたり,アメリカ出張ではアラン・サンデージ氏やライマン・スピッツァー氏,ジョン・ホイーラー氏に会っていたり,さらに研究室のエピソードでは卒業生の杉本大一郎*6佐藤文隆*7佐藤勝彦*8観山正見*9といった錚々たるメンバーが出てきたり.人事に関するオフレコにした方が良いような内容もあった気がするのですが,時効なのでしょうか.あ,あと最後の回想集に福来正孝*10の寄稿があってちょっと驚いたような*11*12*13

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そんな中で印象に残った話を以下に少しだけ記します.

 

一つ目は佐々木節氏の紹介しているエピソードで,おそらく林氏に関する最も有名なエピソードのひとつです.

佐々木氏が大学院入試に合格して林研に入ることが決まった際に喜んで林氏の部屋に行って,それから半年ほど宇宙物理についてどんな勉強をしたらいいでしょうかと訪ねたところ,「君はこれまで遊んでばかりいただろう.そんなことは考える必要はない.ランダウ・リフシッツの理論物理学教程を読んでおけ」と言われたとのこと*14

当時の佐々木氏はショックを受けたそうですが,後で振り返ってみると大変良いことだったそうです.そうやって物理の基礎を真面目に勉強することで,その後で宇宙に関係したことに何か疑問があったら,それに物理の基礎を応用してみて何かおもしろいことができないか考える,といった発想ができるようになったとか.

また,昨今の大学院生はその後の日本学術振興会特別研究員の採用を目指して業績を少しでも挙げるために早くから論文投稿につながるよう研究に取り組みがち,といった話も出てきます.

林氏は素過程を大切にされていたそうです.研究対象として扱っているのは天体物理現象ですが,その業界の仕切りにとらわれずに物理学の基本に基づいて考察を進めることを重視していて,そのため天体現象だけでなく素粒子や物性などできるだけ幅広い学問分野について勉強することを促していたようです.

この点はもしかしたら学生の個性によって適したスタイルは異なるのかもしれません.基礎がそこそこの状態でも,実際に研究に取り組む中で不足している部分を認識することで能動的に知識を補っていくことはできます.人によってはそうしたモチベーションがある方が早く吸収できる可能性がありそうに思います.

ただその場合は,少なくとも最初に取り組む研究については,広い視野から自分自身で考えた上でトピックを選択するというよりは,縁のあった指導教員に提案されたトピックを選択することになりそうです.そして,その後研究に取り組んでいく中でそのスタイルに甘んじずに十分に汎用な基礎を身につけていかないと,いつまでも研究対象が狭いままになってしまう恐れもありそうです.

この分野における自立した研究者になりたいのであれば,早いうちから物理の基礎を疎かにしないというのは必要条件のひとつなのかもしれないとも思いました.

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もう一つは関谷実氏が紹介してたのですが,林氏は論文について「査読は甘くてよい」という意見を持っていたそうです.

「非常に斬新な研究の中には,少数の査読者がその内容をよく理解できずに却下されてしまうものがある.論文は公表された後に世界中の読者が評価すべきものであるので,最低限の質が確保されているのであればとりあえず掲載すべき」といった考え方と思われます.特に林氏は幅広い研究トピックについて革新的な研究に取り組んできていますので,そうした中で何度も査読者の無理解を嘆いてきたのかもしれません.

私もこの点は大いに同意するところです.もちろん提出された論文に,手法に関する記述が十分に書かれてなくて再現性が乏しかったり,そもそも剽窃や改ざんなどの可能性が疑われるような場合には,査読者は著者らにしっかり改訂を求めていく必要があると思います.しかし,その程度のことは通常は論文投稿前に共著者とのやり取りを通して改訂されていることが多いですし,もしそうでなくても一度でもそんなことをしてしまえば当該コミュニティにおけるその研究者の信頼は失われてしまいますので,たとえ査読者が見落としてしまったとしても,そうした行為をしていればいずれ淘汰されてしまうような気がします*15

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あと,林氏と関係ないんですけど,中村卓史氏が紹介している中村氏の学部時代のエピソードも印象に残りました.

溝畑茂氏のルベーグ積分の講義を受けたときの余談で,数学においてある問題が解けないときに二つの捉え方がある,といった話を聴いたそうです.一つは,「努力が足りないから解けない」というもの.もう一つは,「その問題自体が悪い」というもの.そして,後者の場合は問題を解けるようなものにしないといけない,と.

中村氏はそれまでの受験の習慣から,問題とは解くものであって,それ自体に良い悪いがあるという発想はなかったけれど,その話を聞いたときに研究というのはきっとそういうことなのだろうと理解できたそうです.溝畑氏のルベーグ積分講義はほとんどいたるところわからなかったけれど,この話だけはハッキリと理解できたとか笑.京大に入学をして大変得をした気分になったそうです.

 

 

他にも興味深く思ったエピソードがいくつかあるので,気が向いたら加筆してみます.

あ,あと研究解説パートも気が向いたら目を通してみたいと思います.

 

*1:スティーヴン・ワインバーグ氏の『宇宙創成はじめの3分間』でも紹介されているとか.

*2:今井氏といえば裳華房から出ている『流体力学(前編)』を,ちょっと高価なんですけど入手して,講義の参考書として読んでました.後編がないのが悔やまれます.同氏による物理テキストシリーズの『流体力学』は後編に入るべき内容も含んだ簡潔バージョンなのかもしれませんがまだちゃんと読んだことないです.

*3:出題された問題は非常に難しくて解ける人はほとんどいなかったんだとか.サイエンス社の『演習力学[新訂版]』を想起すると良心的な問題を出題されそうな印象なのですが,東大での講義は全く異なったのでしょうか.

*4:ビッグバンにおける元素合成論文.後に林氏により改良された.https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%BB%E3%82%AC%E3%83%B3%E3%83%9E%E7%90%86%E8%AB%96

*5: \alpha \beta \gamma論文に関するエピソードは須藤靖氏の『ものの大きさ』で読んだような(5.2節).ってか『ものの大きさ 第2版』が出るんですね!

*6:N体シミュレーション専用の計算機GRAPEプロジェクトで有名.弟子には野本憲一氏や牧野淳一郎氏がいます.

*7:雲はなぜ落ちてこないのか』とか『火星の夕焼けはなぜ青い』とかをよく読んだ記憶があります.まだ本棚にあるので読み返してそのうち紹介したいです.

*8:アラン・グース氏と独立にインフレーション宇宙論を提唱したことで有名.弟子には須藤靖氏や横山順一氏がいます.

*9:国立天文台の4代目台長(2006-2012年).

*10:福来氏についてふと検索してみたら,大栗博司氏が大学院生のときにゲージ理論の計算をみっちり教わったというエピソードが出てきました.https://planck.exblog.jp/15464130/

*11:途中の講演録での質疑応答でも出ていて,宇宙項の値の素粒子論的な意味を聞かれてました.

*12:回想文では,林氏が天体核で主催されていたセミナーを絶賛していました.セミナーの内容にギャップがあるなと思っていると林氏が質問したり補足したりするので,それを聞いていると後は二,三の計算を自分で確かめれば自然と内容を完全に理解できたとのこと.あの福来氏にそこまで言わせる林氏のセミナー,動画として残ってたらぜひ見てみたいし,音声だけでも残ってたら大きな遺産になってたのではないかと思ったような.

*13:そして福来氏は天体核のセミナーに出ていた当時,天体物理はほぼ素人だったと断りながら,その知識はチャンドラセカール氏とシュヴァルツシルト氏の星の教科書,ワインバーグとピーブルス氏の宇宙論の教科書を理解している程度だったと記していて,専門に研究はしていないながらも決して素人とは言えない水準なのでは,と思ったような.

*14:私はまだ『力学』と『場の古典論』の一部(学生だった頃に何かのレポート課題に取り組む際の参考にした)しか読んでなくて,どこかで取り組みたいなぁとか思ってますけど今更でしょうか....『統計物理学』は少し前に復刊してましたよね.他のも復刊したりしないかな.まぁ英語で読んだら良いじゃんって話かもですが.

*15:論文の査読に関して思うところは以前Noteに少し記したのでこちらにリンクを張っておきます.